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君を愛した人
「ワスレ❖名草」

放課後の図書室は、時間が少しだけゆっくり流れている場所だった。高い窓から射す夕陽が本棚の列に細い光の帯を描き、埃の粒がそのなかを静かに漂っている。ページをめくる音と、ペンが紙をなぞる音だけが響いていた。

私は分厚い英英辞典を開き、指先で行を追っている。でも、頭には何も入ってこない。勉強が嫌いなわけではない。ただ今日はどうしても集中できない。理由は、少し離れた席に座るクラスメイト……セシリアのせいだった。

銀色の髪が夕陽を受けてやわらかく光り、肩のあたりで静かに揺れている。ノートに向かう横顔も、髪を耳にかける仕草も、ページをめくる指先までもが、どこか儚くて美しかった。

世界がふと音を失ったように感じた。聞こえるのは、ペン先が紙を滑るかすかな音だけ。その小さな世界の中心に、彼女がいた。

「……っ」

また、見てしまった。慌てて辞書に視線を戻すけれど、文字は意味を結ばず、セシリアの横顔が瞼の裏に焼きついたままだ。

(やめなきゃ……でも、やめられない。)

それは憧れかもしれない。尊敬かもしれない。でも、名前を呼ばれるだけで胸が跳ね、隣を歩くだけで指先が熱くなる。
その感情に、私はもう名前をつけていた。

ある日の放課後、いつものように並んで座っていると、セシリアが顔を上げて言った。

「名草さん、英語得意なんですか?」

その声は思っていたより柔らかく、少し照れたようにも聞こえた。私は咄嗟に答えた。

「ううん、むしろ苦手かも……」

セシリアは目を丸くしてすぐに微笑んだ。

「でも、いつも頑張ってるなって思ってた」

その一言で胸の奥が一気に熱くなった。思わず口が滑った。

「セシリアさんのほうが、いつも静かに勉強してて……かっこいいよ」

言い終えた瞬間、耳の裏まで赤くなる。セシリアは小さく目を伏せて呟いた。

「……そんなふうに思ってくれてたんだ。名草さんだけだよ、そう言ってくれるの」

その声には、かすかな寂しさが混じっていた。

それから二人は少しずつ言葉を交わすようになった。宿題を見せ合い、わからないところを教え合い、たまに冗談を言って笑う。セシリアは私がつまずいた英文を指でなぞりながら、「ここ、こう読むとわかりやすいよ」と小さく矢印を書き入れてくれる。その指先が紙を離れるたび、私の心は静かに揺れた。

本の貸し借りも、いつしか二人だけの小さな儀式になった。指先がふと触れるたび、胸の奥で何かが音を立てる。けれど、どちらもそのことには触れなかった。触れたら、きっと壊れてしまうような気がしたから。

季節が移り変わり、図書室を抜ける風が少し冷たくなったある日、貸していた詩集を返してもらった。そのしおりの挟まれたページに、鉛筆で小さな丸がついていた。

 

 

月をつんざく程の因果の乱れが
運命の糸を運びよせた。
双極の星のような私たちのこの想いを
一体だれが止められるだろうか。

          因果律詩集 16節

 

「この詩、好きだったの」とセシリアは言った。彼女の瞳には、もう迷いがなかった。

それから少し経った放課後。秋の光が窓を金色に染めている。

「この時間、すごく好き」とセシリアが呟いた。
「私も」と私は答えると、セシリアは微笑んで少し息を吸った。

「名草さんがいるから、だよ。」

その一言で私の世界が静かに反転した。次に続いた言葉は震えながらも確かだった。

「私……名草さんのことが好き。ずっと言いたかった。怖かったけど……もう黙っていたくない。」

胸の奥で何かがほどける音がした。私はゆっくり息を吸って言った。

「私も。セシリアのこと、ずっと前から。」

セシリアの瞳が潤み、微笑みが灯る。その笑顔は、今まで読んだどんな詩よりも綺麗だった。

その日々が過ぎても図書室は変わらなかった。ページをめくる音と夕陽の光。ただ、その隣に「彼女」がいるということだけが、私の一日、一時間、一分、一秒すべてをやわらかく照らしていた。言葉にしない想いが静かに息づく。それは派手な恋ではない。
けれど確かな愛のかたちだった。

彼女と出会ってから二年と一日。私はそれだけで十分だった。

瞬間、視界が溶けた。

気がつくと、見慣れた教室にいた。けれど何かが違う。私と、セシリアの二人きりなのに、いつもとは違う空気が漂っている。

「……ここは、一体?」

不安そうな表情のセシリアを見る。彼女の不安は私にも伝わった。いつもの暖かな夕陽は消え、白んだ昼の光が無表情に差している。時計は動いているのに、時の流れがどこか平坦に感じられた。

「ねえ、セシリア……?」

驚いたように彼女は虚空を見る。私の言葉は教室の白い空気に落ちてすぐ消えた。

「だ、だれ……ですか?」

その瞳は確かに私を見ているのに、そこには私に向けられたあの柔らかな温度がない。胸が縮む。私はゆっくり立ち上がり、震える声を抑えて言った。

「セシリア……私、名草。ほら、図書室で……」

私の伸ばした手を彼女はそっと押し返した。それは拒絶ではない。もっと怖く、はっきりとした距離の取り方だった。

「……ごめんなさい、どこかでお会いしましたか……?」

その一言で胸の底が冷たくなる。彼女の声は丁寧で慎重で、普段の私に向けられたものではなかった。図書室の笑い声も、二人で共有した沈黙も、すべてまるで別の世界の出来事のように背後へ滑り落ちていく。

セシリアの瞳が細くなった。風が通り抜けるように、彼女の呼吸が少し乱れるのを私は見逃さなかった。そこにあるのは温もりではなく警戒だった。まるで何度も命を賭けて戦ってきた者のような構え。私が動けば……そのときは命のやり取りが始まるだろうと確信した。

「……こんなのって、ないよ」

知らない感覚が体を包む。絡まった因果の糸が私を起点に流れ込み、世界の魔力が極限まで高まって私を満たした。白い教室の壁に、ひびのような“線”が走る。まるで現実が誰かの手で無理やり上書きされているように。

「っ……!」

セシリアが鋭く息を飲む。完全に私を敵と見なしているようだ。

私はそんな彼女を知らない。もっと柔らかい瞳で、もっと優しく、もっと……
そのとき、ふと確信した。その“セシリア”は偽物だ。

ならば、私はこの世界を、間違いから取り戻す。

手のひらを広げる。胸の奥で熱いものが脈打っている。怒りとも悲しみとも違う、ただ「奪われた現実」に抗う衝動だった。

「……あんたは、セシリアじゃない」

その言葉が教室の冷えた空気に鋭く響いた。彼女はわずかに眉をひそめ、後ろに一歩下がる。

「あなたは一体、何を……」

「違う。セシリアは、そんなふうじゃない!」

私の声は震えていなかった。恐怖の代わりに、静かな決意が宿っている。流れ込む因果が、私にこの世界の戦闘の経験を教えてくれた。極められた魔法を、ちょうど今、この瞬間のために。

 

 


本気で戦えるはずがなかった。

戦いの最中、私は気づく。この“彼女”もまた、確かにセシリアなのだと。名前も、仕草も、魂の形も。そして、最後の光が私に降り注いだ。

結局、何が起きているのか、最期までわからなかった。涙がこぼれ、意識が遠のく。ただ一つだけ……あのときの詩を残して。

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