ゼフィラトリクス 公式
世界への挑戦者
「ルナ≡アイ」
月銀の涙が、私の足元を淡く照らしていた。
ここはムーンロードの深層。人の足跡がほとんど刻まれていない、世界の底だ。空気は薄く重く、耳鳴りが絶え間なく響く。視界は揺らぎ続ける。それでも私は、この場所を離れなかった。
この、世界の心理にいつ気が付いたのか、定かではない。世界のあちこちに散る微かな違和感……これは、誰かの物語なのだと。そして私は、その物語の「主人公」ではないのだということを。
かつて剣を手に、数々の戦場を駆け抜けた。仲間がいて、名を呼び、背を預けてくれる者がいた。だが、長い年月の中でぼんやりと悟ってしまった。
この世界の物語は、私を中心に動いていないのだ、と。
舞台の中央には別の誰かがいた。出会ったこともなければ、これから会う見込みもない。だが彼女こそ、この世界の主人公だった。街も人も、運命さえも彼女の選択に収束していく。私は、その外縁に漂うただの背景画にすぎなかった。いや、背景画ですらなかったのだろう。
虚しさが胸を満たした。私の勝利も敗北も、意味の薄い飾りに過ぎないのではないか?
だが時が経つにつれ、その虚しさは別の形に変わった。
主人公を押し上げる?
救いの手を差し伸べ、物語の一部として名を刻ませる?
違う。主人公ですら絶望させるほどの強大な力を手にし、舞台の中心に立つ者たちを迎え撃とう、と。
ムーンロードの深層に辿り着ける者は常人ではない。足を踏み入れるためには大量の神器……月銀の涙がなければならない。そしてその先に待つのは、私だった。何年も、私はここで待ち続けた。主人公は絶対にここにたどり着くと信じて。
試練と鍛錬の日々、刃と魔術の蓄積、そして最後に残された一手。
私は決めていた。私を討つ主人公には、最後の贈り物を与えよう、と。
試練と鍛錬の日々、刃と魔術の蓄積、そして最後に残された一手。私はすべてをこのときのために積み上げてきた。だが、誤算もあった。思いのほか多くの人間がこの空間に迷い込んでくることだ。なぜここに来るのか、私には見当もつかないがムーンロード深層はそれほど不安定なのだろう。
一度、「百花繚乱」と名乗る黒髪の少女に敗れたこともあったが、紆余曲折を経て、今日、静寂を裂く足音が遠くから近づいてきた。月銀の光が揺れる中、彼女が現れた。出会った瞬間、直感が告げた。唯一私が敗北した、あの時の黒髪の少女とは雰囲気が違う。彼女こそが、この物語の主人公だ、と。
彼女の持つスキルは常識外れに膨大だった。さらに神器の数は百や千を軽く超える。こんな存在は普通、許されるはずがない。だが私は知っていた。この世界が物語で、彼女が主人公であるという真実を。知らなければ、何の疑問も抱かなかっただろうが。
彼女は武器を構え、息を整える。その瞳には精密な機械のような集中と、悲しげな無垢さが同居していた。望まぬ主役……おそらく本人は気づいていないだろうが。操られているのか、選ばれてしまったのかは、私にも分からない。
しかし、私のやるべきことは決まっている。ただの戦闘ではない。次元を越える戦いだ。システムをぶち壊し、この物語の根幹そのものを覆す戦い。これまで積み上げた私の全ては、この時のためにあったのだろう。
戦いは長く、激しかった。彼女を絶望させるほどの力、そして私の槍は月光を切り裂く。一度膝をつくが、私の本領はここからだ。世界の根幹を壊し、全く新しい戦闘をこの場で繰り広げた。しかし彼女の一撃は私と同等かそれ以上に重く、何度攻撃しても立っている。
私は全てを出し尽くした。
……いや、正確には私に残った一つの、ある種の恐怖が常に力をセーブさせていた。
もはやこの世界の根本の戦闘を変えるほどの力を持ってしまった私が、本気で戦ってしまえば世界はどうなってしまうのか、と。世界が崩れてしまうのではないか、そんな心の奥底にあるひとしずくの恐れが、本気を出すことを邪魔していた。
……やがて、私は膝をついた。武を握る腕が上がらない。視界の端で、月銀の光が細く揺れている。
「……お見事。やはりあなたは、本物の……」
言葉が途切れる。胸元の輝く槍に手を伸ばす。それはかつての仲間との誓いの断片であり、無数の戦いを共にした相棒だった。しかし、それはこれから、私だけのものではない。
私は深く息を吸い、槍を彼女に差し出した。
彼女の手が槍を確かに受け取る。重さを確かめるように握るその指先が、ぼやけた視界の中で異様に眩しかった。
「これを……持って行って。きっと、あなたの道を照らすはずだから」
声は穏やかだった。彼女は言葉を返さず、ただ短く頷いた。感情は言葉ではなく行為で伝わる。私はふっと笑った。これでいいのだ、と。私の物語は、彼女とその奥にいる誰かの記憶に深く刻まれるだろう。
だが、最後に一つだけ、してみたいことがあった。主人公を目の前にして、私はどうやってこれを行ったのかは自分でも分からなかった。しかしほんの一瞬、この世界が止まる。
闇が訪れ、すべてが凍りつく。音が消え、光が滴り落ちるように止まる。その中で、彼女の顔をまじまじと見た。驚きか、悲しみか、喜びか……どれとも言えない表情が、静止した時間に揺れている。
返事は期待していない。だが私は、この一瞬を借りて物語を見ている何者かへとつぶやいた。
「私は知っているよ。」
「舞台の中心は彼女でも……糸を引いているのは、あなたなんでしょう?」
世界は、動き出す。